最近のトラックバック

CD:

アマゾンで買えます

2012年1月25日 (水)

2012小論文入門②

前回の二つの文章について。

まず、その1。色々な経験がたくさんあったので春が好きだ、ということが伝えたいのはわかる。だからこそ、あれこれと出来事を並べて書いたのだろう。ただ、この字数では、あれこれ書いてしまうと、ひとつひとつが薄っぺらな話しになってしまう可能性が高いが、本答案も、まさにそのようなものになってしまったようだ。ひとつひとつの事象は、あたかも春にありそうなことではあるのだが、誰にでも思いつくような事例に過ぎない。実際には体験していなくても、ありがちな一般論として語ることの出来るものでしかないのだ。これでは、書き手自身の、春を好きな度合いが伝わってこない。結果として、多くの人に、説得力に欠ける答案であると評価されるだろう。

一方、その2は、自分の子供の頃の体験にこだわって述べられている。また、その体験から、冬が自分にとってどのようなのであるのかということが、分析されていると言える。雪のやんだ朝という体験 → 冬は清潔、という話しは、書き手自身の問題意識が十分伝わってくるため、説得力のある文章であると思えるのだ。

両者を比較して言えることは、テーマを絞り、具体的な事例を取り上げ、分析、検証していくことが、少なくともなにかを伝達する上で、効果的なのだということだろう。もちろん、全ての文章についてそれがあてはまるわけではないが、一つの重要なポイントではあるはずだ。その1のような文章は、形式を整え、正しそうな意見を述べることが大切だと考えている人が書きそうなものではないか。そして、そう考える人は結構多いのではないか。僕も学生の頃はそうだったように思う。それはおそらく、表現のレベルでは、けっして悪いことではないのだろう。ただ、なにかを伝達するというレベルにおいては、不利になることが多いのではないかと思われるのだ。

2012年1月24日 (火)

2012小論文入門①

まず、第1回目だが、とりあえず以下の2つの文章を読んでもらいたい。

 

 

テーマ「私の好きな季節」

 

その1

 私の好きな季節は、春である。春は植物が芽吹く季節であるし、動物や昆虫も動き始める。暖かくなってくると、梅や桜の花が咲き、入学式を迎え、人々も新しいことを始めていく。また、出会いの季節でもある。だんだん暖かくなっていくだけでも嬉しいのだが、それはどうしてなのだろうか。皆がどことなくワクワクし、何かが始まっていく感じがするのだ。私はそんな春が好きなのである。

 しかし春は、出会いの季節であると同時に、別れの季節でもある。卒業、転校など、悲しい思い出もたくさんある季節なのだ。ただ、悲しい思い出があるからこそ、新しい出会いや、新しい出来事に期待することが出来るのではないだろうか。

 今年もまた、春がやって来る。今年はどんな良いことがあるのだろうか。どんな出会いがあるのか。楽しい思い出も、悲しい思い出も、いっぱい詰まっている春が、私の好きな季節なのである。

 

その2

 私の好きな季節は冬である。とくに、雪が降り積もった後の、晴れた朝が好きなのだ。

 幼い頃、正月の朝早くにひとり目覚めてしまい、ふと外に出た。昨夜からの雪はやみ、雲ひとつない晴れ上がった空の下、一面の雪景色の中、慣れ親しんだ街並が、全く異なったものに見えた。おそろしいくらいに静まり返っていたのだろう。屋根の雪がとけて落ち、それから排水溝を流れていく水の音だけが聞こえてきた。世界の何もかもが清潔に思えてならなかった。不思議と寒くはなかったように思う。

 今でも冬が近づくと、そのことを思い出すことがある。一般には、冷たく、暗く、悲しい、ネガティブなイメージの冬であるが、私は、冬の清潔さが好きなのである。私には、冬があらゆるものを清めていくような、むしろ明るい感覚があるが、それはあの思い出に起因するのかもしれない。

 

どちらが好きだろうか。面白いと感じるか。そして、どこを評価するか、しないのか、その根拠を考えてみて欲しい。私の考えは、次回。

2012年1月20日 (金)

2012年

去年はあまり更新出来なかったが、今年こそは、と思っている。そこで、これまでも、小論文入門について書いたことはあるが、あらためて書いていこうと思っている。出来るだけわかりやすいものを心掛けていきたい。

2011年11月21日 (月)

大リーグ

今年も日本シリーズが終わり、日々の試合に心を動かされることなく、くだらないストーブリーグなるものに関心を抱かざるを得ない季節になってしまった。今回は、主力選手の大リーグへの流出という問題について考えたいと思う。たしかに、野茂をはじめに、イチロー、松井、松坂といった、所謂イイ選手が、大リーグのチームに移籍するということは問題なのかもしれない。しかし、そうした選手達は本当にイイ選手なのだろうか。それで本当に日本の野球が低迷するのか。

ありきたりな小論文指導から生まれる、おきまりの問題提示をしてしまったことには全く省みることなく話を進めたい。

まず、大リーグ移籍には9年かかる。高卒でも27歳でやっと移籍ということになる。移籍には、ある程度の活躍と成績を残す必要があるため、概ね30歳前後ということになろう。先ほど取り上げた超一流選手は、突出した成績を残して、鳴り物入りでメジャーに行ったわけだが、僕としては、彼らは十分楽しませてくれたので、もういんじゃないかという気持ちになっている。一人の選手が一番輝く時代は超一流になるまでの過程であり、その後、続けて活躍したとしても、輝いた星の燃えかすを見守るということになるのではあるまいか。燃えかすを大リーグに差し上げたと思えばよいのである。超一流選手がいなくなれば、若手が台頭しやすくなるし、チームの新しい戦い方について、ファンはまた夢中になれる。

また、超一流の選手は、僕にとっては、そもそもあまり魅了がない場合が多い。主力選手の派手なパフォーマンスはおもしろいものではあるが、そこに依存しているチームの戦い方は、大抵つまらないものである。なにげない守備や走塁の高度な技術、そして記録に現れないようなプレーにこそ、プロ野球の凄みを感じる。そしてそうしたプレーの出来る選手というのは、概ね芽が出るまでに時間がかかるものである。彼らに大リーグからお声がかかることはほとんどない。ドラゴンズの井端、荒木の二遊間、1,2番コンビが、来季大リーグに、という事態が恒常化しないかぎり、僕は、僕の好きな野球を楽しみ続けることが出来るのである。

たとえば、今年ヤクルトから青木が抜ければ、戦力的には大きな問題である。しかし、田中浩康の3割越え、ベテラン福地の錆び付かない足、森岡の守備、畠山の頭の悪さに加え、不可解なバレンティン、そしてなにより若い投手陣など、来季もその魅力が薄れることなど考えられない。チームの顔は必要ではあるが、顔に頼っているチームは、所詮それだけのものにすぎないのだ。タイガースファンである僕ですらそう考えているのだから、いわんやヤクルトファンをや、であろう。

大リーグへの主力選手の流出の結果、アメリカの頭の悪い野球ファン(これは当然尊敬の意味も含んでいる)にも、日本の野球ファンである僕にも、それ相応の選手があてがわれ、日米双方がよかったねということになればそれで良いということにはなるまいか。

2011年11月14日 (月)

追い込みの時期

推薦・AO入試も、そろそろピークを越えたようだ。生徒たちは、個別指導を終えて、ちらほら合否の報告に来るようになった。とはいえ、いくつかの大学は、まだまだこれから出願というところもあり、駆け込み指導も含めて、もう少し仕事は続くようだ。

さて、今年度の推薦・AO入試で気がついたのは、出願期間、試験日程が前後に伸びたということだ。8月中しに出願し、9月の早い時期に決まってしまう人が増えたように思う。また、11月のこの時期になっても、まだ新規申し込みがあることを考えると、やはり前後に伸びたなあと感じるわけだ。生徒としては、選択肢が広がるという意味で、有利になったとは言えるのだが、一般入試への切り替えが遅くなるという欠点もあるだろう。尤も、しっかりと戦略が立てられている人にとっては、何の影響もないのだろうが、多くの悩める受験生には、悩ましい要素が増えることになるのではないか。それは少々不安ではある。


2011年10月 6日 (木)

日記的な独り言

なぜだかいつも雨が降っているような気がする東京から見て総武線の最果ての少し手前にある校舎に今まさに向かっている僕の目の前にはたしかに見覚えのあるテキストを真剣な顔をして見つめていた青年がこちらを見つめているようなそんな気がするのだ。

2011年9月15日 (木)

二学期だ

ブログを更新しないままで、かなりの時間が経ってしまったようだ。気がつけば、二学期に突入していた。二学期は、通常講義に加え、個別指導を行っている。もっとも、一学期の途中、六月終わりくらいから個別指導は始まっているのだが、圧倒的に受講人数が増えるのは、九月半ばからだ。例年、述べ五十人位の生徒を指導するのだが、今年も同じ位の人数になりそうな感じがしてきた。つまり、新規受講生が増えてきていて、予定が埋まってきていることから生じる予感とでもいうものがある、ということだ。たくさんの生徒に受講してもらうのは結構なことだし、ありがたいことであるのだが、忙しくて雑な指導にならないようにしなければなるまい。

2011年5月12日 (木)

基礎シリーズ(1学期)が始まった

今年も通常授業が始まり、すでにひと月が過ぎた。始まったばかりとも思えるが、一学期の三分の一が終わったことになる。文系は、小論文の基本的な考え方と、それを試す問題に取り組んでもらったところ。医系は、加えて医学・医療の概論に触れてもらった。まだまだ、小論文がどんなものか、よくわからない段階であろう。これまで、あまりやったことのないあたまの働かせ方に戸惑うことも多いはずだ。それでもなんとかやっていってもらいたいものだ。乱暴な言い方をすれば、他人が示した問題とその論理に当てはまる、自分の体験(直接体験だけでなく、間接体験も含めて)を思い起こし、それを文章化していく作業だ。言葉にすればそれまでだが、これがなかなか難しいのである。ただ、ここをクリア出来れば、小論文はあやしいものでも、難しいものでもなくなるはずなのだ。

2011年4月24日 (日)

新小論文入門⑤(再掲)

理解②をすすめるということは、筆者の問い(テーマ)を自分なりに問うことに他ならない。それは筆者と自分の間で、問い(テーマ)を共有することだと言え よう。小論文では、明確で一貫したテーマを設定し、論じていくことが重要であるといわれるが、それは書き手が好き勝手にテーマを決めるのではなく、課題文 に対応したテーマを設定する必要があるわけだ。前回までの記事と合わせていうならば、筆者の論理を、自分の具体的な体験を重ね合わせることで、筆者とテー マを共有していくことが重要なのである。

2011年4月20日 (水)

原発について

 大地震が発生してから、この東京でも様々な非日常的状況が生じ、生活が安定せず、どこか心安まらぬ日々が続いてきた。東北などの被災地で暮らす人々、原発事故に関係する人々のことを考えると、軽々に発言することが憚られたため、地震に関わる記事を書かずにいた。ただ、地震からひと月以上が過ぎて、これからどのように日常を取り戻して行くのか、いや完全に取り戻すことは叶わないのか、ということを考えなければならないと思うようになってきた。そこで、これまでの様々なメディアからの、色々な情報について思いついたことを、いくつか書き留めておきたい。

 まず、一番疑問に感じたのは、原発からの放射性物質に関する報道である。たとえば、「東京の放射線量は0.1マイクロシーベルト/時なので、ただちに健康に被害を与えることはなく、安全だ」といったこと。この時しばしば、「胸部レントゲン1枚撮影した時の放射線量は100マイクロシーベルトで、その1000分の1の線量なので、問題ない」などと説明される。しかし少し考えればわかるのだが、レントゲンは一瞬の被ばくでしかない。それに対して、空間からの被ばくは、1時間だけのはずがない。普通に生活をしているのだから、1週間、1か月、1年といった期間での被爆を知る必要がある。単純に計算しても、「×24(時)×7(日)」

「×24(時)×30(日)」

「×24(時)×365(日)」

とすべきではないか。

 また、原発から大量の放射性物質がばらまかれている現状では、空間からの放射線量、野菜からの放射線量、水道水からの放射線量といった、単体からの被ばくをもって安全だというのも意味がない。ひとつひとつが安全であっても、通常より放射線量が多いのであるから、合算すればかなりの放射線量を被ばくすることにもなりかねないからだ。

 報道する側は、専門家であれ、たんなる司会者であれ、まじめに「胸部レントゲンの1000分の1だから安全」を信じて言っているのだろうか。ならば相当頭が悪いということになる。それとも、一般市民を安心させるため、だますことになるが、あえてわかりやすく述べているのだろうか。それにしてはあまりに安直なトリックであり、これも頭が悪いとしか言い様がない。いやそうでなく、僕の書いていることがおかしいのだろうか。どなたかに説明してもらいたいくらいである。

«新小論文入門④(再掲)